2012年2月9日木曜日

フリーヒール・スキーイング

1988年に出たこの本。当時のテレマーカーの間では結構有名だった本だ。「フリーヒール・スキーイング:あらゆる(雪の)状態でのテレマークおよびパラレル技術の秘密」というタイトルに示されているように、カカトを固定しない道具を使って行うテレマークターンとパラレルターンを同等にあつかっているという点で、他に類を見ない本だ。著者のポール・パーカーはクロカンやアルペンのインストラクターを皮切りに、TUA社のテレマーク用スキー(現在ではMovement社の板にその技術が流れ込んでいると聞く)の開発に携わったり、Garmont社のテレマークブーツ開発に中心的役割を長らく勤めたり、非常に幅広い立場からスキーという物に関わって来た人だ。1992年3月に奥志賀で開催された「パタゴニアカップ」テレマークレースにYvon Couinardと遊びに来てくれたときにその滑りを見る機会があったが、あまりにもスムーズな滑りに、そのすごさが良く分からん、というか、「これが大リーグボールだ!!」といったけれん味がなく、淡々とどこでも滑ってしまう、という風情だった(と思う、実はあまり良く覚えていない)。それだけ実用的かつ大人のスキーだったのだと思う。そういうところが、テレマーク命!な、当時の多くのテレマーカーには受けなかったのか、この本も邦訳も出ないまま、いつのまにか忘れられてしまったように見える。このタイトルに興味を持った人は、読んでみてはどうだろうか。2001年刊の第3版(上記の奥志賀でのデモの様子がおかしく書かれたコラムも追加されている)がアマゾンで買えるし、amazon.comにはkindle版もある(内容の一部はkindle版のところで見られるので読めそうかどうかチェックできる)。多少古めかしくなったところもあるかもしれないが、スキーの原理は何も変わっていないし、自分の滑りの幅を広げ、どんなコンディションでも楽に安全に楽しく滑り降りるための技の引き出しを増やしてくれる本だと思う。

2012年2月6日月曜日

厳冬の霧ヶ峰

記録的な豪雪が一段落した週末、あまり積雪の多いところはリスクと苦労が多そうなので、積雪控えめな中信で遊ぶことにした。土曜は、近い割にガッツリ滑れるふじぱらでゲレンデ修行。昼頃は、アイスバーンにならないギリギリの堅雪で気持ちよく飛ばすことができたが、日が傾くにつれて氷の層が露出しだしたのでリタイヤして蓼科の宿に向かった。いつも蓼科へは最寄りの諏訪ICからアクセスするが、この日はふじぱら最寄りの諏訪南ICあたりから斜めに地道を走ってみた。諏訪ICからビーナスライン沿いの風景はごちゃごちゃしていて好きになれないが、こっちの道は八ヶ岳の眺めといい、次第に近づく車山といい、大変よろしい。
 日曜は車山スキー場から霧ヶ峰をスキーで散策して、エコーバレーやブランシュたかやまに行ってみるプラン。たかをくくってのんびりしていたら遅くなって、リフト2本に乗って車山山頂到着が11時過ぎになってしまった。写真のように八ヶ岳、富士山、甲斐駒などなど大変美しい。御嶽、乗鞍、北アルプス、更に北の方にはひときわ真っ白な火打山も小さく見える。エコーバレーのリフトトップがすぐそこに見えるが、みるみる頭上は雲が増え、風はこのところの寒気の名残でとても冷たい。まぁ、せっかくだから距離感を体験してみようと、一段下りた車山乗越でシールを貼って歩き出す。案内図
 このあたりの雪原はシュカブラとブッシュが混じってあまり快適ではない。シュカブラの横っ腹にスキーの先端が刺さると、意外に堅いのでトップを上げるのに苦労する。かと思うと、スキーごとゴソッと沈むような吹きだまりもある。要するにスキーで快適に歩き回るのに適した季節ではない。訪れる人はほとんどスノーシューを履いて、夏の遊歩道を歩いている。どうも道を辿った方がスキーが沈まず楽そうだと、車山乗越から北上して、高原と山彦谷(エコーバレーの元々の名前...)との境を走る道を辿ってエコーバレースキー場に向かった。途中、狐を発見。太い尾が良くめだつ。南の耳の手前のコルからスキー場に滑り込むと、快適な滑り心地に感動した。レストハウスハイジで冷えた体を温めてラーメンを食す。
 更に南の耳、北の耳を越えてブランシュたかやまへと思っていたが、つのる寒さにあっさりあきらめて帰路につく。だいたいスタートが遅すぎる。帰りはショートカットして蝶々深山(ちょうちょうみやま)山頂を通る。写真は山頂から車山乗越(中央のわずかに凹んだ白いところ)に向かう遊歩道。スキーにはやや狭いがシールを貼ったまま軽いボーゲンでガタガタ下るとわるくない。少なくともシュカブラの海をゴソゴソ歩くよりずっと速い。
 乗越の手前で車山の肩からの道が合流する地点から振り返った蝶々深山。剱岳も山ならば、この穏やかなでっぱりもまた山。左端に小さな森が見えるあたりが車山の肩で、森は「ころぼっくるひゅって」の防風林だ。ビーナスライン開通以前にこの小屋を建て、妻子と共に定住して登山者を守ってこられた手塚宗求さんのエッセイ集「邂逅の山」「遠い人 遙かな山」には、このあたりの自然の美しさと厳しさが綴られている。
 ヒュッテと防風林を望遠で撮ると、下の森には守るべき建物がないように見える。上記の本によると、当初からずっと山小屋は上の場所にあるのだが、途中で一旦、生活のための小屋を下の森の場所に建てた時期があり、後に上の小屋の拡張を可能にするために下の小屋は解体したが、森だけが残ったとのこと。「小屋の跡を取り巻く防風林は、すでに守る主を失ったが、この湿原のほとりに住んだ私達の青春の軌跡を示す森になった。(「遠い人 遙かな山」の一章、「軌跡の森」より)」ほんの一時とはいえ、厳冬期の霧ヶ峰を味わったあとで、ぽつぽつと読み返すと、エッセイがまた心に沁みた。

(2冊から抜粋した平凡社ライブラリーの「新編 邂逅の山」には、この章が入っていて、ebookでも買えます