2019年11月25日月曜日

大杉谷から大台ケ原

 大台ケ原は自動車で手軽に行けるが、それでは有り難みが薄いので、行くなら大杉谷からと思っていた。高校時代にワンゲル部長のI君が夏休みに行った話を聞いてうらやましく思って以来なので、47年越しの懸案?!ということになる。 5年前に、それまで10年ほど道が崩れて大杉谷が通れなかったのが、やっと通れるようになったと聞いて、その気になって宿やバスの予約までしたのだが台風が来て行けなかったことがある。今回11月中旬のシーズン終わり間近になってやっと実現できた。雨が多い山だし、小屋の混む季節はいやだし、公共交通機関の予約は必要だしで、なかなか思い立ってすぐ、とはいかない。

名古屋から紀勢線の特急ワイドビュー南紀1号で三瀬谷という駅まで行き、ここから登山口まで予約制のマイクロバスに乗るのが旅の始まり。帰りは大台ケ原からバスで降りて来れば、長い下りで足を痛めることもない。このバスに乗るのはだいたい同じ行程の人達だ。途中の登山センターで入山協力金1000円を払うともらえる大杉谷の焼印の入ったキーホルダー(ヒメシャラかヒノキ製)が良い記念になった。
発電所の脇から歩きだすと、いきなりこんな岩を削った鎖の手すり付きの道に出くわして驚くが、よく整備されているので落ち着いて通れば危なくはない。
向こう岸の高いところから落ちてくる千尋(せんぴろ)の滝。初日は冬型気圧配置なので寒さを覚悟したが、意外に穏やかな天候で、汗をかきながら登る。初日は標高差は少ないが、岩場のアップダウンがそこそこある。
吊橋もたくさん渡る。これは平等グラ吊橋。右手の断崖が、平等グラという大岩の一部だ。スケールの大きな景観が大杉谷の持ち味。

平等グラの全貌。でかいおむすび型の岩だ。高さ100m以上ありそうだ。大台ケ原周辺谷は地質的には水成岩(砂岩、頁岩)にチャートがところどころ筋状に入り込んでいるというのが基本で、大杉谷は侵食されにくいチャートが崖や滝を作っているそうだが、さてこれはどんな岩でできているのか。
吊橋を渡って今夜の宿の「桃の木山の家」。昭和15年に近鉄(の前身)が登山道整備と合わせて作ったのが始まりだそうだ。たくさん泊まれそうだが食堂は小さめ。風呂もある。
朝はさすがに寒いので7時にゆっくりスタート。その日に大台ケ原を2時半か3時半に出るバスで帰るというのが一般的らしいが、僕らは大台ケ原でもう一泊するので急がなくていい。最も美しいという七ツ釜の滝。
深く透明な水と白い巨岩のコントラストが美しい。イワナがのんびり泳いでいた。堂倉の滝で大杉谷から離れて尾根を登り始める。大台ケ原山頂の日出ヶ岳まではここから900mほどの登り。途中、350m登って林道に出たところに粟谷小屋があり、宿泊もできる。
尾根の上部はシャクナゲがたくさん生えていて、5月下旬の盛りの頃は美しいそうだ。空が広くなり日出ヶ岳が近づく。やっと山頂、とも思うし、もう終わりかと惜しくもある。
日出ヶ岳山頂には木造の展望台が建っている。登ってきた方を振り返ると尾鷲あたりの熊野灘が見下ろせる。海に近い山なので雨も多い。きれいに整備された遊歩道をたどって大台ケ原駐車場に降り、上北山村売店で食事したり、ビジターセンターでゆっくりしてから宿に入った。「湯治館」というが、沸かし湯なのであまりのんびりできないが、食事はたいへん美味しかった。


翌朝は再び日出ヶ岳まで登ってから、正木ヶ原の枯れ木地帯を歩く。本来は針葉樹と苔に覆われた山だったのが、1959年の伊勢湾台風などで木が倒れ、乾燥が進んで笹原となり、針葉樹の森が回復できずにこのような景観になったそうだ(看板)。自然のバランスは微妙だ。

最後はお約束の大蛇グラ。大台ケ原の穏やかな地形も端のところでは急な崖となっている。右手隣の岩壁ではクライマーの姿もあった。
2時半のバスで大和上市に降り、近鉄電車を乗り継いで、7時半に名古屋に戻った。スマホの発達で、時刻表のチェックや指定席を取るのも手元でできるようになり、公共交通機関の旅もずいぶん便利になった。

2019年11月8日金曜日

倶留尊山

名張の南に「室生火山群」とか「曽爾(そに)の山」というエリアがあり、火山特有の景観が面白いので近畿のハイカーに人気がある。倶留尊山(くろそやま)はその代表格。大阪住まいの高校生だった46年前の年末に、Nくん、Hくんに付き合ってもらって雪を踏みながら登った思い出がある。11月初めに登ってみた。

山の南にお亀池という湿地があり、一帯はススキの草原になっていて、すぐ近くまで車でアクセスできる。昔に比べるとずいぶんススキが減ったそうで、復活の試みもいろいろされているとか。
お亀池から亀山峠に向かって登る。向こうに見えるのが国見山・住塚山と屏風岩。これも火山だ。亀山峠は東海自然歩道が通っていて、ここまでぐらいが軽いハイキング。
峠から稜線を北上すると二本ボソというピークで、そこで入山料を取られる。二本ボソから見た倶留尊山。倶留尊山まではわりとアップダウンがある。山頂からは遠く大台ケ原がうっすら望まれた。周りには、大洞山(おおぼらやま)や三峰山(みうねやま)などの昔登った懐かしい山々。
倶留尊山東麓を回る周回コースを取ることにして、山頂からそのまま北に縦走を続けて西浦峠に向かう。途中、少し寄り道して三ツ岩で倶留尊山を眺める。東側は崖になっていて、お亀池あたりののどかな景色と一味違う。46年前は北麓から登りだして、西浦峠から山頂に向かったと思っていたが、記録を読み返すと道を間違えて直接倶留尊山に向かう尾根をたどっていた。従ってこの景色は初見のはずだが何故か見覚えがあって不思議。
西浦峠から東に降りて太郎生(たろお)の集落の上手をたどる。池の平高原というらしい。倶留尊山東面とススキが良い取り合わせ。左端の四角い小さなピークが二本ボソ。
東海自然歩道の石畳道をたどって亀山峠に登り返す。峠は、老若男女で賑わっている。稜線付近に小さく煙が上がっていたり、近くに焦げ跡があるのは、この日行われた草焼き(ヤッキリ焼き)のため。これもススキの復活のための試みの一つだそうだ。駐車場にもどると駐車待ちの車の列がまだ長く続いていたので驚いたが、どうも夕日に映えるススキというのが観光ポイントらしく、駐車場は夕方が一番混むのだそうだ。


この機会に昔のフィルムをスキャンしたのでいくつか貼っておく。キャノネットにネオパンSS。これは倶留尊山頂。当時はほとんど木がなく見晴らしが素晴らしい。
これは確か二本ボソの一角の岩場。高度感があって、自分でも気に入った一枚だった。
その岩場の脇から下を見下ろしたところ。まさに断崖絶壁だったが、今回はこんな場所があることに気づかなかった。
亀山峠あたりはあまりかわらないが、稜線の左(東)側の木が今ではずっとよく育っている。

2019年7月4日木曜日

村山槐多展

美術博物館での「琉球の美」展に続いて、子ども美術博物館で「村山槐多展」があった。22歳で結核で亡くなった画家の、子ども時代に絵を描き始めたころから亡くなるまでを通観できる良い(赤裸々な)展示だった。子ども時代の、望遠レンズで建物の各部を引き写した製図のような絵から始まって、青春真っ只中で模索を続けた作品たちまで。その模索の最中で死が訪れることの無念さが伝わる。詩作も多く、ガランス(赤茶色の絵の具)を多用した絵に対応する「一本のガランスをつくせよ」というフレーズは、なぜか記憶にあった。油絵による印象派ふうの絵画では、木の下の暗い世界から陽の当たる梢までダイナミックレンジの広い表現が見事で、光の輝きに高揚感がある。
山本鼎とは母親同士が岡崎出身の姉妹で、鼎も槐多も幼くして岡崎を離れたものの、二人とも岡崎ゆかりの画家に違いない。洋行する直前の鼎が、使っていた油絵の具を槐多に残して油絵を描くことを勧めたというエピソードもあるそうだ。今回発見された多くの作品も、その死をいたんだ友人たちが死後に分け合って大事に持っていたものが世に出たという経緯のようだ。必ずしも近くにいて快適な人ではなかったろうが、その天才ぶりを皆が認めて将来を楽しみにしていたのだろう。高村光太郎が死の16年後に彼を「強くて悲しい火だるま槐多」と表した詩から、そんな気持ちが伝わってくる。Eテレの日曜美術館で取り上げられたを後で見たが、詩との対比がうまくつくられていて、理解が深まった。

2019年1月17日木曜日

MOUNT SHIELD LENS for Pentax Q

 1/1.7 型 というコンパクトデジカメサイズのセンサーを使ったレンズ交換式ミラーレス一眼のPentax Q-S1。純正レンズは8種類あるが、一つだけ未購入だったのがこれ。Qシステムもそろそろ終わりが見えてきたのでコンプリートした、というブログ記事につられて買っておくことにした。マウントキャップ代わりということで「MOUNT SHIELD LENS」。絞りはF9固定、焦点調節もなし、という潔い仕様。背面の液晶で構図を決めてシャッター押すだけというのが意外に快適。
 「撮影距離の目安:約0.3m-2m」となっているが、もう少し近いところが得意な印象。周辺ボケも盛大。(主題の強調は得意、とも言う。)
 こういう景色を意味もなく撮りたくなる。
遠くはボケボケだが、写すものによっては面白い。
景色よりも接写の方が断然得意。
少し出来上がりが想像できるようになってきたかな。
 色を楽しむ。
 水面の反射を取り込むとおもしろい。
マルゲリータとりんごとはちみつピザ。
主題の強調。